音楽その他日記#70 ガセネタ『Sooner or Later』

ガセネタ

山崎春美(ヴォーカル、痙攣)

浜野純(ギター)

大里俊晴(ベース)

佐藤隆史 他(ドラム)

私の生きてきた半生のうちで一番衝撃を受けた日本のバンド。

それが「ガセネタ」であった。

出会ったのは私がハタチかそこらの頃。

一回り以上年長の知人が教えてくれた。

その知人は、ガセネタのベースの大里の友人だった。

すでに山崎春美の「タコ」のLPに一曲収録されていたのだが、

聴いていたのに失念していたのか、それともそのLPをまだ

その頃は聴いていなかったのかは今となっては判然としないが、

とにかくその知人が大里から貰ったというガセネタの演奏を

収録したテープを聴いた。そして心底感嘆した。いや、そんな

生ぬるいものではなく、度肝を抜かれたとでもいうか、筆舌に尽くし

がたく名状し難い表現に出会った喜びと戸惑いを体験した。いや、

それも違うな。言葉にすると陳腐化してしまうほど傷つきやすい何か。

そう、彼らはその頃まだ多感な10代だった。

このバンドの精神的かつ音楽的支柱であったギターの浜野純は

小学生の頃に灰野敬二の取り巻きをしていたという。

ガセネタのドラムの佐藤隆史によると浜野は、灰野の取り巻きとして

幻野祭のロストアラーフ(灰野ボーカル)の現場にも居たらしい。

それが事実なら当時11〜12歳であるとのこと。恐るべき早熟だ。

その浜野は弱冠16歳で連続射殺魔のベーシストとなるが、リーダーの

和田哲郎と仲違いして(だったかな?)脱退している。

ボーカルおよび痙攣、そして歌詞を担当する山崎春美(男)は

1975年、大阪の高校生時代に阿木譲の『ロック・マガジン』誌に、

素晴らしく独特で、ある種の美的な文体を持つ文章を寄稿し、注目される。

1977年に上京した折、当時明治大生だった園田佐登志が集めてきた

有象無象が集った「現代音楽ゼミ」で大里と浜野と出会い「ガセネタ」を結成。

当初、浜野は山崎をドラマーとして参加させようと目論んだが、リズム感が

まるで無い山崎に呆れ、ヴォーカリストへ転身させた。しかしリズム感の無さは

ヴォーカルに於いても発揮され、一音を発したら、そこから音程が変化しないと

いう特異なヴォーカルスタイルを持つガセネタの演奏を聴いたカリスマ的

音楽評論家で音楽プロデューサーでもある間章(あいだ・あきら)は

セリーヌシャンソンのようだ」と大喜びし、

氏をして「このバンドのためならなんでもする」と言わしめた。

間のクスリ事故による急逝により、それは叶わなかったが。

ベースの大里俊晴は、2006年に公開された青山真治監督による、上述の

間章についての長編ドキュメンタリー映画「AA」にて、全編に亘り

インタビュアーとして出演している。

浪人生時代に成り行きで「ガセネタ」に参加。ガセネタ解散後は早稲田大学

第二文学部にてフランス文学を学びつつ、山崎春美が主導する不定形音楽組織

「タコ」にて演奏活動を行う。

やがて演奏とそれにまつわる人間関係に嫌気が差し演奏活動を休止し、海外へ。

パリ第8大学芸術研究科修士課程、研究課程に学び、ジョン・ケージ研究の権威

ダニエル・シャルルに師事する。

留学から帰国した後は、「ユリイカ」誌などを舞台に評論活動を展開。

私はこのころ、東京藝術大学で大里氏の講義を受講している。まだ日本のロック

界隈で「ガセネタ」の「ガ」の字も出ていない頃。当たり前といえば当たり前で、

ガセネタのCDはまだ出ていないし、唯一収録されている「タコ」のアルバムは

LPがプレミアが付いていて、CDはブートしか出ていない状況だったのだから。

1992年、突如として大里の著作『ガセネタの荒野』(洋泉社)が発表される。

この本はガセネタ内部の話は勿論、当時の日本アンダーグラウンド音楽の状況をも

著述してあり、非常に面白い。特に破滅型の天才を2人も擁するガセネタ

(浜野が「速度」、山崎が「過剰」を象徴していると大里は記している)に関する

エピソードの数々は筆者である大里俊晴の多分に韜晦癖のある文章(評論で見せる

硬質な文章と違い、浜野と山崎という天才ふたりを際立たせるためか、自らを

卑下する文章となっている。また山崎がガセネタ時代に大里に言ったという

「君って、本当に文章ヘタだね。どうしていつも、そうヘタなの?」との言葉

通り、元々多少野暮ったい文章を書く人ではある。だがそこが魅力でもある。)

で書かれると、とても得がたい魅力を発散させる。

この『ガセネタの荒野』は評判を呼び、2011年に月曜社から装丁を変えて

復刊されているので、現在でもアマゾンなどで入手が可能。一つのマイナーな

10代のバンドのサクセスストーリーならぬ破滅ストーリーが小説化されている

という、何とも珍妙な本ではあるけれども、とても面白い本で、出てくる名詞が

ロックバンドよりも作家や哲学者の名前のほうが多いんじゃないかってぐらいで、

音楽書じゃないので読みやすい。ガセネタに少しでも興味がある方は、是非読んで

いただきたい一冊。(また山崎春美の著作集も一昨年出版された。『天國のをりものが』

というのが、その著作名。クセの強い文体であるけども、至福団というユニットを

一緒にやっていた現在作家の町田康よりも面白い文章であることは請け合います。)

また、評論活動の傍ら、武蔵野美大早稲田大学などで非常勤講師を務めてのち、

1998年、横浜国立大学教育人間科学部助教授として採用され、その後、教授へ。

(私の若い友人で偶然、それぞれ武蔵野美大、早稲田大で大里氏に学んだ人がいるが、

とても面倒見のよい先生だった様子。またこれも偶然だけど、私が通っていた荻窪

古本屋の店主は、住んでるアパートの隣室が大里氏だと当時言っておりました。奇遇。)

流動的だったドラムのうちの一人、佐藤隆史は伝説のフリースペース「マイナー」の

店主で、これまた伝説のレーベル「ピナコテカ」の主幹であった。

「ピナコテカ」は灰野敬二の1stアルバム「わたしだけ?」や山崎の「タコ」そして

コクシネルの「ライブ」など数々の重要作を世に出した。そして「ピナコテカ」と

どちらが先だったか忘れたが、「アマルガム」というフリーペーパーも発行しており、

これも現在は当時の状況を知る資料として珍重されている。

吉祥寺「マイナー」は当時のアンダーグラウンド音楽の演奏者や愛好家にとっては

重要な場所であったが、客は2〜3人ということもザラだったらしい。その客でさえ、

佐藤がよく寝坊して、せっかく来たのに入場できないことが多々あり、怒って帰った

とのことである。「マイナー」には前出灰野敬二やガセネタなどが定期的に出演していた。

『ガセネタの荒野』が出て、日本のロックファンの耳目を集めたガセネタだったが、

肝心の音のほうが聴けない状況だった。それを見かねたのかどうかは定かではないが、

我らがPSFレーベル、見事偉業を成し遂げた。書籍出版の翌年にガセネタ初CD化。

タイトルは『Sooner or Later』、1978年のライヴ等を収録したもの。

山崎主導で作られた。というより、他のメンバーは積極的な不参加だったのだろう。

ジャケットは野球選手の江夏豊を使用している。「速度」のシンボルとしての起用か。

ガセネタは4曲しか作らなかった。それ以上の曲数は必要無いと考えていたようである。

「宇宙人の春」「雨上がりのバラード」「社会復帰」「父ちゃんのポーが聞こえる」の

4曲。とりわけ浜野はタンジェリン・ドリームの1stアルバムの曲のリフを繰り返し

奏でる「父ちゃんのポーが聞こえる」1曲で事足りると考えていたらしい。

浜野は「ガセネタ」を自分の手で解散させた後、灰野敬二の不失者にベースとして

参加。その後永年、表舞台には一切出てきていない。※「ロック画報」誌に雑談

らしきものが掲載されたことはある。

大里は禁煙・菜食であったが、肉を食べない代わりにチーズや甘味に偏った食生活を

した結果、晩年には闘病を強いられ、遂には落命した。享年51。

山崎は最近になり復活し、ガセネタ(オリジナルメンバーは山崎とドラムの乾純だけ)や

ソロやタコなどで活動中。

佐藤は現在行方不明である。

(以上、敬称略)